彼は、そこに座り続ける。それが仕事ができるようになってから、ずっと彼の仕事だった。
彼の仕事は、村の外から入ってくる人がこの村にとって危険でないか、監視する役目だ。代々その仕事をしてきたようだ。ようだ、というのは、その記憶がないからだ。ただ、毎日村を囲む壁の一角にある関所のようなところに、座るスペースがあり、毎日座る木の机にナイフで刻んだ文字を、記憶がないはずなのに、懐かしい気持ちでみる。
『ここにすわって あやしい人物が入ってこないか 村の安全をまもれ』
そんな言葉に励まされ毎日きている。ずいぶん古い。刻まれたところに汚れがたまっている。
人々の記憶がなくなった今、村を往き来できるのは、行商人くらいだ。それなのに、ここに座り続けるのには意味がある。
「ここで起こった奇異なことは忘れない」
なぜか、ここを通った人のことを忘れない。彼はそれを不思議に思ったことはなかった。門番である自分には、それが必要だったからだ。
「あれ?! 茶髪でそばかすのあなたは、何年か前、ここを通りましたね?!」
彼はびっくりして声をあげた。
「貴方は覚えてるのですか?!」
ビットがびっくりして言う。
「ええ、ここを通った珍しい人のことなら覚えています」
それが、すごいことであるという認識は、門番にはない。
「覚えていられる人は少ない。あなたはとっても珍しいんです。困ったことはないですか?」
めもりは門番に話しかけた。
「ずっと、先祖代々、この仕事を続けてきました。人は大事でどうしても生きていくのに必要なことは忘れないのでしょう。だから困りませんし、当たり前のことですし、使命だと感じています」
穏やかに門番は笑った。めもりは、門番の笑顔から安堵を感じた。
「私はこの村の門に居続けます。息子がいます。その子もきっとここに居続けるでしょう。村を守るために」
「なんだか、とっても不思議ですね。強制された訳でないのに続いていく。こういう人たちをみていると、このままでもいいんじゃないかと思ってしまうよ」
めもりは感嘆して言う。
「そうですか? 私にとっては当たり前すぎて……村で良い時間をお過ごしください」
そうして、めもりとビットは村に入った。
「ねえ、メモリ。僕は不安を覚えたよ。君は、最近、覚えていなくてもいいんじゃないかと、思っているんじゃないか?」
「え? なんで?」
「このままでもいいと本気で思ってる?」
「ビットに会う前までは、絶対に治療した方がいいって思ってたけど、今は、何が何でもとは思わない。今のままでも生活が成り立っている人がいる。もちろん、病気なら治した方がいい。でも、無理に早くに治す必要があるようには思えない、この忘却病は」
「間違ってるよ、メモリ! 病は早期に治った方がいいに決まってる!」
「ビット、君は自分の思いだけでたくさんの人の今の幸せを壊す権利があると思うか?」
「どういう意味?」
「今、満足に生活している人は、この生活が変わったら、幸せで満足なままでいられるか? そういう意味で俺も不安だ」
「それは……」
「お話し中失礼致します。宿泊先は決まりましたか? よろしければ、私の家に来ませんか?」
少し離れた場所にいたが、言い争う声が聞こえて、門番がやってきたようだ。険悪な雰囲気を察したのか、仲裁してくれたようだ。
「ぜひ、お願いします。」
めもりは、笑顔で言った。ありがたく、その申し出を受けることにしたのだ。
「僕はメモリがいいなら」
ビットは控えめに言った。言い争いをしていた気まずさに目を伏せている。
「では、夕方になるまで、村をぶらぶらしていてください。この門に来ていただければ、家までご案内します」
二人は門番が言うように、村の中をぶらぶら歩き回ることにした。
「なんだろう、今まで通ってきたどこの村より小さいけれど、どこの村より、畑に多彩な植物が植えられてる。あの村を取り囲む高い塀のせいかな。害となる動物さえも入ってこれないんだ」
めもりは感嘆する。小さな村の防衛は完璧なのだ。
「みんな幸せそうだね」
ビットは興味がなさそうに言った。
「なんでそんなに興味ないんだ」
「だって、これが自分の生まれた村ならいいけど、そうじゃないなら何に興味を持てばいいんだ。僕の時間は一日だ。この村に興味を持つ時間は割けない」
そう言う彼は、突然ピタッと止まった。
「あ! あそこは図書館っぽい」
ビットが本能のままに走り出した。
「おい、ビット?」
「宝の山だ! こんな完璧な形で残っているなんて!」
ビットは目の色を変えて本を物色しだした。めもりは、ため息をついた。
「これは、歴史の本?」
めもりは、ある一つの本に興味を引かれた。
『第…次世界大戦で世界は疲弊している』
「結構、破れていて読めないな」
相当古い本のようだ。
『終わりの見えない戦い』
『いつまで続くのか誰も予見できない』
『戦争に関わる国は、もう戦うことしかできない』
『過去の遺恨から、争いが始まり、今では何が原因だったかも忘れられている』
『血を血で洗う戦いが各地で繰り返されている』
『人が人を殺し合う醜い争いが止まらない』
「どういうことだ?」
ところどころ破れていて完全には読めないが、読み取れるところだけをめもりは必死に読んだ。
『まだ戦火が遠かった我々の国に、戦争が襲い掛かってくるのも、そう遠くない未来だ』
「過去の人類は、戦争をしていた?」
めもりは、目を疑った。この本からこれ以上、読み取ることはできなかったが、そういうことだろう。
「それも、世界を巻き込むほどの大きな戦争」
今の世界からは想像もつかない。
「人と人が殺しあう? なぜ?」
めもりには想像できなかった。殺したいほどの感情を持ったことはない。なぜなら、相手が覚えていないので、どんなにこちらが感情を持っても無意味だからだ。憎む心は一日では育まれない。時間をかけて育っていくものだ。
「遺恨とはなんだ? ビット、遺恨っていう意味を調べてほしい」
「今は話しかけないで。そこの国語辞書あるから」
ビットは本を読むことに熱中していた。一刻の余裕もないというような表情で一冊の分厚い本を指さす。
「ビットも、実は本関係に関しては忘れないんじゃないのかな。不思議な力もってるよね」
めもりは、『遺恨』という言葉を探す。
「え?なんて読むんだ?! ビット」
「もぉー! イコンだよ。意味は……」
まるで自分の本のように開いていた。一瞬で見つけると、該当しそうな項目を指でなぞった。
「忘れがたい深いうらみ……かな。物騒だね、メモリ」
ビットの瞳は笑っていなかった。
「過去の人類は憎み合い、恨み合って、戦争をしていた?」
「ここにある文献を読むと、そういう記述が多いね」
「なんでそんなことする必要があったんだ」
「メモリの中にも、僕の中にもあるものが原因さ」
「俺の中にもあるもの?」
「そう、欲望さ」
「欲望?」
「食べたい、眠りたい、人より上にみられたい。あの土地がほしい、お金がほしい。あと、欲がからまなくとも不運な状況とか。理解し合えないとか。そんな簡単なものが、積み重なると、人は争い出す」
「それは、止めることはできるのか?」
「結果は、その歴史の本を見ればわかるでしょ?」
めもりは、悲しそうにその本を見た。下を向いて、何も言葉を発することができなかった。
「止められないし、人が最後までわかり合うことはできなかった結果が、この世界だと僕は思うよ」
「ビットは知っていたのか?」
「もしかして、僕にも忘れられないものがあるとすれば、それなのかもしれない。興味のあるものへの知識。狂ってるほど求めてしまう。それは、罪だと思う」
「罪?」
「そう、知っているけど、何もできない、しない罪」
「それは罪なのか?」
「罪悪感で死にそうになることがあるよ」
「それは死ななくていいと思う。いや、違う。罪悪感を感じなくていい、かな」
頭がいいと大変なんだね、とめもりは他人事なので楽天的に言う。
「あ! もう日が沈むじゃないか!」
慌ててめもりは立ち上がる。
「本当だ。夢中で気づかなかったね」
のんびりとビットが座ったまま本を離そうとしないまま言う。
「早く門番さんのところへ行こう!」
ビットが持っていた本を手から奪い置き無理やりひっぱって外に出た。
「明日も来ようね!」
名残惜しそうに図書館を見続けていた。
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