めもりはバイクで走っていた。
走っている途中、どうしても人間としての原始的欲求が抑えられなくなる時 がある。お腹が減ったり、たまには布団で寝たりしたい。
そういう時は、必ず、近くの村に寄ることにしている。
人が住む場所は多くない。村がない時はあきらめて、野宿するが、人間は減 る一方だ。
覚えていられないということで不幸な出来事が多発する。子供がいるか覚え ていないのだ。妊婦の女性であれば、お腹を見れば、これから産まれる子供が一目瞭然だ。しかし、子供を産み終わった後は? 近くに子供がいれば、
わかるが、少し大きくなった子供が不慮の事故で外に出たら?
外に出てしまった子供は、自分の家も覚えていない。探す親も、寝てしまえ ば、記憶がリセットされる。不幸な事故が多く発生していた。
だが、だからこそ、子供は村の全員で育てていた。自分が忘れても、隣人は 覚えているかもしれない。同じ村の子供を見た人が不審に思って保護してくれるかもしれない。覚えていられなくとも、子供は、生きていける。だが、
数は減る。お産も命がけだ。
人間は考えて改善していける生き物だ。
環境が変われば、自分たちも変わる。
人間は生きていくことに必死だ。忘れる、ただそれだけのせいで。
だからこそ、争いのない平和な日々が続いていく。
覚えているめもりにとって、何もない平和な日々は苦痛でしかない。地獄だ。
だが、平和を望んだ忘れる者達にとって、そこは楽園のような場所だろう。
「俺は認めない。忘れてしまう人間なんて俺は認めない。俺が認めてしまっ たら、誰も覚えている人はいなくなる」
「絶対に、この世界を忘れない世界にする。それが、覚えている俺の唯一で きることだ」
めもりは歯を食いしばりながら、孤独に耐える。そして、覚えていられる 世界にするために、バイクを走らせた。彼はのちに、英雄となる。だが、その道程は、決して良いものとは言えないだろう。彼の孤独の記録だ。めもり
は、そうなると思っていた、この少し先の出会いまでは。
「そろそろ、お腹が減ったな」
「わん!」
めもりが一人上を向いて言うと、黒犬のあぷりも鳴き声で答えた。
森を抜け湖に出た。一人の老人がぼやいていた。
「どうして皆、忘れてしまったんじゃろうなぁ」
湖の岩先に座り、釣りをしながら、一人ごちていた。
「あなたは? 忘れないんですか?!」
めもりは、その独り言を聞いて、ものすごい勢いでその老人に詰め寄った 。
「おぉ、なんじゃおまえさんは」
「俺は忘れない人間を探して旅をしている者です。俺自身忘れません」
「そうか、やっと出会えたか」
老人は達観した顔をしていた。諦めの境地のような。しかし、そのくしゃ くしゃの皺だらけの顔を少し緩めた。
「わしの家に行こう。行ったら、食事と宿を提供しよう」
「それよりも、おじいさんの話を聞かせてください」
「明日にしよう。わしゃ疲れた」
「でも、明日じゃおじいさんは忘れてしまうんじゃ……」
「わしゃ今日、おまえさんと会ったことは忘れるじゃろう。だがな、おまえさんの欲しがっている答えを忘れたりはせん。慌てなさるな。人生も、決断も焦りは禁物じゃ」
「でも……」
「おまえさんも疲れとるんじゃろ。顔が土気色じゃ。ほれ、飯だ」
「ありがとうございます」
「明日、起きたら、おまえさん、何て名前だ?」
「めもりです」
「では、明日一番に、自分めもりは覚えている人間だ、とわしに行っておくれ。もう寝る。お主はそこの寝床を使え」
「わかりました。おやすみなさい、おじいさん」
次の日、起きためもりは約束の言葉を言い、おじいさんは、昨日会った湖んの畔へと案内した。
「わしゃ、ある時までのことは目覚めた時に思い出す。いうても、ものすごい昔の話じゃ」
おじいさんは淡々と語り出した。
「なぜ、皆が忘れるようになったかはわからん。ある日突然、まるで病気のように、皆が忘れてしまった」
その日に想いを馳せるように溜息をつく。
「そのきっかけの日までの記憶を朝起きた時に思い出すことはできるのじゃ。じゃがな、それ以降の記憶はまるで靄(もや)がかかったように思い出せん」
めもりの目を見て、おじいさんは真剣に語る。
「わしは特殊なケースだ。わしが生きていた時、ある日突然、その病のような現象で全く思い出せなくなる者もいた。自分の名前さえも憶えていないんじゃ。わしが忘れ出したのは、仮にこの忘れてしまう事象を病としよう、そ
の病が、流行しだして、だいぶ後のことじゃった。その日のそこまでは覚えている。次々と周りの者が忘れていった。ニュースという便利なもので、流行病のようなことだと言っていたのを覚えておる」
おじいさんは、その当時を思い出したように語る。
「当時はとても怖かった。誰も彼も、自分のことから親や友達、恋人や伴侶のことまで寝て起きたら端から覚えていないんじゃからな」
寒気がするのか、おじいさんは自分の腕を抱えた。
「覚えているわしは、恐怖した。そして、忘れるようになった今でも、そのことはそこまでの、十歳そこらだったかのう、そこまでの記憶はある。恐怖を覚えとる。だから、ここまで生きてきた。その危機をどうにかできるのは
、覚えとる者だけだからのう。だが、わしもその病にかかり忘れてしまった 。情けない話だが、恐怖と共に安堵も覚えてしまった。わし一人が背負うに は重すぎる話だからのう」
めもりの気持ちがわかる、と言っているのだ。めもりの何十倍の時間を周
りの人が忘れてしまうという恐怖と闘ってきたのだ、このおじいさんは。
「だが、ずっと気にかかって生きてきた。わしは、あそこまでは、十歳そこ
そこまで覚えているのに、何もできなかったからのう」
自分には何もできなかったと言っているおじいさんは、晴れ晴れとした顔
をしていた。そうして死んでいく無念が今日、少しだけ晴れた。
「わしは最後に、おまえさん、めもりに会った。わしは託すよ。おまえさん
に。この、忘れられる世界を、救ってはくれんかね。今のわしは、忘れられ
ることで何の不自由もしとらん。だが、これからの人間達は、忘れたまま生
きてほしくない。自分の母親の顔も、父親の顔も覚えられず、最愛の伴侶の
顔も死ぬ時に思い出せないように死ぬのは勘弁してやりたい。今のわしがそ
うじゃ。頼む。わしは今の世界で満足しておる。たかだか十歳の記憶しか残
っておらんからのう。自分の妻も子供の顔も思いだせん。だから、何もせん
かった。できんかった。おまえさんは、満足しとらんな?」
おじいさんの瞳は強く美しく輝いていた。
「世界を覚えていてくれ。自分の世界を。お前とすれ違った人達の世界を覚
えていてくれ。生きていたことを証明してくれ。わしがいたことを覚えてい
てくれ」
おじいさんの瞳には、水滴が浮かんでいる。
「頼む……わがままなことだとわかっている。自己勝手なお願いだともな…
…でも、わしが諦めてしまったことを諦めてくれるな。おまえさんは普通の
人間だ。わしが十歳まで知っていたころの普通の人間だ。保障する。だから
、救ってくれ。この世界を……」
おじいいさんは、横たわってしまった。ずいぶん軽くなった身体だった。
一体、何年、何十年生きたのだろう。あるいは、何百年なのだろうか。
「じいさん? じいさん? おい!」
百年以上を生きた老人は、命を終わらせた。役目を終えたように。
「なんで、待っててくれないんだ。待っててくれよ。覚えていられる世界に
なったって、自慢しに来てやるよ。なんでそれまで生きててくれなかったん
だッ!!!!」
めもりの瞳からは、おじいさんと同じ水滴がまるで滝のように流れていた。
「じいさん!」
この老人の死を覚えている者は、めもりだけだ。そして、この世界が変わ
らない限り、これからもずっと。
「この人を、埋葬したい」
落ち着いためもりは、とても軽いおじいさんを抱え、村まで戻った。
「確か、まってね。村に墓地があるわ。その方、ずいぶん長生きしたのね。
とても満足そうな顔で眠っているようだわ」
そう言って埋葬場所を案内してくれている人は、彼の孫だった。覚えてい
ないということは、残酷すぎる。死に泣いてくれる、悲しんでくれる親族も
いないのだ。
「あら、そんなに泣かないで。忘れてしまうのに、お知り合いだったの?
そんなわけないかしら。誰も昨日のことなんて覚えてないんですものね」
めもりは声もなく涙をこぼしていた。腕の中で軽くなった老人は、きっと
、覚えている世界であれば、たくさんの人に囲まれて亡くなっただろう。子
供や孫、もしかしたらひ孫にまで。奪われたのだ。忘れるというこの世界に
。
「この世界は幸せですか?」
めもりはその女性に問うた。
「この世界? そんな大きなことはわからないけれど、私は幸せよ」
その笑顔がめもりの心に焼きついた。
悲しみは積み重ねだ。絶望もまた、積み重ねて裏切られ続けた先にあるだろう。目の前の女性には、悲しむべき過去がない。思い出がない。
「幸せと錯覚させられているだけです」
「例え、そうだとしても、どうしようもできないでしょ?」
めもりは唇を噛んだ。悔しい。この老人は、もっと幸せに生きられたはず なのに、という思いがめもりの中からどんどん湧き上がってくる。
「良くわからないけれど、泣かないで。覚えていられる今日を精一杯生きま
しょう」
老人を抱えているため、めもりは涙を拭くことができなかった。めもりの
は涙は老人上に降る。
「どうして、こんな世界なんだ!」
叫びは空に吸い込まれた。
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