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 Only the memory 3



 彼は、失意のまま走っていた。

 この世界の不条理に押しつぶされそうだった。

 どうして、人は覚えていることができないんだ、という悔しい思いに囚われていた。それは、口の中に残って消えない後味の悪さのように、残り続けた。

 数日バイクを走らせると、めもりは、ある村に着いた。

「なんか景気のいい村だな」

 そこは、めもりがいた村を含めた木枠の柱やわらの屋根で出来た家とは全然違った。

「レンガとか、コンクリート?っていうので出来てる。なんでこの村だけ……ずいぶん古いからか?」

 この村は、前時代の建物がそのまま残っているようだ。

「なんにせよ、寝心地が良さそうだ、な、アプリ」

「わん!」

 真黒な犬が元気に鳴いた。めもりについてきてくれる優秀な相棒だ。落ち込んでいるのを察していつもより元気にしっぽを振ってくれるのだ。



「あなたのような旅の人、初めてみた」

 そこには女性がいた。めもりより年上の二十代前半くらいの女性だった。

「君の名前は? 俺はめもり」

「名前なんて忘れてしまうから、覚えてもいないわ。必要ないもの」

「名前を忘れてしまうことすら忘れてしまうのに、君は他の人と少し違う?」

 めもりは期待した。まさか、覚えている人なのではないかと。

「少しだけ。私も忘れてしまうわ。たった一つのことを除いて」

「たった一つのこと?」

「そう、たった一つのことを除いて。望んでもないのに」

「覚えていられるってこと?」

「間違いではないけれど、生きていく上で何の役にも立たないわ」

「何を覚えているの?」

 めもりは必死に聞いた。

「悪いけど、明日にしたら? 旅して疲れてるんでしょ?」

 めもりは、酷い意地悪をされた気分になった。

「私の準備もほしい。だって、話したくもないことなんだもの」

「明日、俺のこと忘れてしまうんじゃない?」

「昨日、約束した旅の者だって言って。たぶん、そう言えばわかる。だって、覚えていることは一つだけなんだから。それを話すだけだから、今日でも明日でも何も変わらないわ」

「ふーん、それならいいけど。どこか寝る場所ない?」

「近くに教会があるわ。そこだと配給もしてるから、ご飯も食べられるし、寝床も用意してあるわ」

「ありがと」

 めもりは考える。なんだろう、たった一つだけ覚えていることって。望んでなくて、役にも立たなくて、話したくないことって。悩みながら、明日には解決するだろうと軽く考え、食事をもらい、ベッドに横になった。

 めもりは気づかなかったが、めもり自身の顔色や衰弱ぶりがとても酷かったのだ。彼女は、めもりの体調を気遣い、明日という話をしたのだった。



「見つからない! あの女性が見つからないよ!」

「わん!」

 アプリが心配そうに聞いてくる。

「臭いをたどって……あの女性の持ち物なんてないから、まず、臭いがわからない! 意味ない!」

 めもりは頭をがっくと落とした。村中を探し回ったけれど、探している相手は、昨日会ったことを覚えていないから、一方的に探すことになるけれど、手掛かりが少なすぎる。大体、周りの人は誰も覚えていないのだ。特徴を言っても、今日、会っていなければ覚えていない。それに、昨日会った女性の特徴など詳しく覚えていない。

「うわーーーー」

 雄たけびを上げながら、めもりはその日も教会に行って、ご飯をもらい、あったかいベッドで眠った。

 次の日もめもりは女性を探していた。毎日記憶がリセットされるということがこんなに煩わしく感じたことはない。昨日、話したおばさんも、はじめましてだ。

「でも、びっくりする。この街は、きちんと売り買いがなされてる。出店もあるし活気がある。忘れているはずなのに、文化的な生活が送れている」

 覚えていなくても人って生きていけるもんなんだな、とめもりは感心する。彼は、忘れないからだ。自分の名前を忘れたことはない。忘れてしまうことを想像すらもできない。けれど、人間は環境に適用することができる。忘れるならば、どうしたら上手く生活できるか、考えて実行する。そうして、人間は生きているのだ。そこに、環境に適応するように生きるために考える。そのことに、きっと疑問はない。

「あ、違う違う。探さなきゃ。あの人を」

 めもりは、その日も教会でご飯をもらい、暖かいベッドで寝たのだった。

「三度目の正直!」

 この村で三日目を迎え、正直、めもりは焦れていた。確かに、あの女性の話を聞くことは、ためになるはずだ。手掛かりにある。だけど、これから先に待つ、この世界を戻すための手掛かりではないような気がしていた。それなら、先を急いだ方がいいんではないか、と悶々としていたのだ。



「あなたのような旅の人、初めてみた」

 最初に会った時と全く同じように声をかけてきた女性がいた。そう、それはまるで仕組まれたように。

「みつけたーーー!」

 めもりはあまりのことに叫んでしまった。

「うるさいわ。私はあなたのことを知らないんですが」

「会ってるんです、三日前に!」

「私は三日前のことを覚えられないわ」

「ええ、違います、俺が聞きたいのは、あなたが忘れないたった一つのことです」

「ああ、なるほど。では、家にきて」



 案内された家はごく普通のレンガの家だった。たくさんある過去の建築物の一つのようだ。

「どうぞ。お茶くらいしか出せませんが。そっちのわんちゃんには、お水くらいしか出せないけど」 そう言って、もてなしてくれた。

「いつもは、旦那がいるのですが、今日は仕事に行っていません」

 仕事? とめもりは不思議な顔をした。そして、違和感に気付いた。旦那という言葉を自分の母親から聞いたことがない。それは、忘れてしまうから当たり前のことだった。朝、起きて本当にその人が旦那なのか確証が持てないのだ。

「畑で育てた野菜を売りにいってるの。いつも収穫できるわけじゃないから」

「大変じゃない? 覚えてないのに」

「慣れたわ。いつもやってることだし」

 今まで話した誰よりも話が通じている気がする。前の村で出会ったおじいさんだけは例外だが。

「不思議そうな顔してるわね。私は何も覚えてない、そこら辺にいる村人と何も変わらないわよ」

「そうかな。俺には、あなたは違うように見える」

「確かに、そこら辺にいる村人よりは覚えてるかもしれないけど」

 彼女はしんどそうに息を吐いた。溜息、とは少し違うかもしれない。

「私が覚えていることは、たった一つだけ」

 めもりは、息を飲む。彼女がとても苦しそうだったからだ。

「私が覚えているのは、私が好きな人のことだけ。それも、たった一人のことだけなの」

 テーブルの椅子に腰かけて対面していためもりは、彼女が俯き、顔を上げないので、どんな顔をしているか、わからなかった。

 めもりは空気の重くなって苦しかったが勇気を振り絞って言った。

「好きな人のことを覚えているのは、幸せなことなんじゃないの?」

「あなたは、好きな人のこと覚えてる?」

 めもりの頭には村に住んでいた、いつも水汲みのためにめもりの家の前を通る少女が浮かんでくる。

「俺は、別にそれだけじゃなく覚えているけれど、その子のことを好きだったかはわからない。だって、俺のこと覚えてなかったから。好きになりたかったけど、自分のことを覚えていない相手を想い続けるのは辛い」

「私も同じよ。私だけが覚えていても、相手は覚えていない。それがどんなに苦しいことか、あなたにはわかる? だって、もう二十年以上も片思いなのよ」

 顔を上げた彼女は、涙を滝のように流していた。

「勇気を出して告白しても、次の日には、私の顔も忘れてる」

「あの……泣きやんでください」

 めもりはたじたじしていた。泣いている女性の泣き止ませ方なんて知らない。それに、こんなに熱い涙を流す人と会ったことがない。記憶の蓄積が、人を感情的にするような気がする。

「毎日告白しても、何の意味もない。好きって気持ちも報われない」

 自分で経験したことをどれくらい悲しかったか思い出し、悲しさをより感じる。めもりはその経験がなかったが、目の前の人が悲しんでいる理由はわかる気がした。村を出る時、誰にも別れを言えなかったことは、悲しかった。それを思い出した。



 彼女は言う。無駄だとわかっていて、明日には忘れてしまうとわかっていても言う。

「私は、あなただけは覚えてる」

 泣きながら笑う。矛盾してる。泣くのは悲しいから。笑うのは嬉しいから。全然反対の感情なのに、心の中に同居してる。

「どんなに時間が経っても、あなたを愛していた記憶だけは消えない」

 幼い頃からずっと一緒だった。幼馴染。いつから好きだったんだろう。いつから覚えているんだろう。

「どんなに他のことを忘れてしまっても、あなたのことだけは覚えてる。例え、あなたが私のことを一切覚えられなくても」

 


「ただいま」

「おかえりなさい」

「だれ?」

「ああ、旅の人。私の話を聞きたいんだって」

「ふうん? じゃ、あっちの部屋にいる。邪魔しちゃ悪いし」

 顔を見ると思っちゃうのよ、と彼女に言った。今帰ってきた彼が、彼女の旦那だろう。

「私は毎日覚えてる。彼のことに関する記憶は。旦那に言いたくてたまらない。どうして、伝わらないの。どうして、覚えていてくれないの。言っても意味ないのに」

 諦めきった顔している。ましてや、旦那が悪いわけじゃないのに、と付け足す。

「どんどん辛くて悲しくなってくる。彼と一緒に死のうと考えたこともあるけれど、まだ諦めるのは早いと思った。辛すぎて彼の前から消えようと思った。一日離れていたことがある。私のことをすっかり忘れて別な女に笑いかけていた。それを見ただけで、嫉妬に狂いそうだった。本当は、忘れたい。こんな叶わない想い、皆と同じように忘れてしまいたい。どうして、神様は、私にこんな記憶だけ残るようにしたの?」

「記憶はない方がいい?」

 めもりは、恐る恐る聞いた。彼女は笑った。自嘲している。

「こんな記憶はない方がいいわね」

「俺が取り戻そうとしていることは、正しいのか?」

「でも、相手も覚えていたら、幸せになれたかもしれない」

「覚えていたら、人は幸せになれると思う?」

「他の人のことは、わからないけど、私は、彼が覚えていてくれたら、それだけで幸せになれると思う。それだけで、今まで彼のことを好きで良かったって報われる」

 笑顔なのに、彼女の顔は悲しみに満ちていた。そうなることが、一生来ないことを知っているから。めもりはその横顔がどういう意味を持っているか知らなかったが、それは絶望している顔だ。

「俺は、覚えていられる世界を取り戻したい。それが正しいことだって信じてる。だから、やるんだ」

 彼女は、今度は屈託なく微笑んだ。昔は大切なことを覚えていられる世界だと、理解しているのだ。自身が証明しているのだ。一部分だけだが。

「実はね、私のお腹には赤ちゃんがいるの。産まれたら、その子のことは忘れてしまうかもしれない。覚えているかもしれない。だけど、この世界自体が変われば、全員が全員を覚えていられる。おかしなことじゃなくなるのよね。私はそれを待っているわ」

 待っているという言葉。それだけで、めもりは、覚えていられる世界を取り戻す理由ができる。絶対に取り戻したいという気持ちになる。人は不思議だ。理由があれば、やる気になる。迷わない。

「あなたに会えて良かった。ありがとうございます」

 夫婦が住む家を後にする。二人は、家の扉を出て見送ってくれた。

 たった一つ覚えているのは、たった一つのキセキ。

「その思い出は、人を愛することの奇跡なんじゃないのかな……」






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