「二人には記憶がないから、なんのことかわからないかもしれないけど、これから血清を作るね」
そこには、ビットとカレンがいた。二人は寝て忘れているため、何のことかわからない。きょとんとした顔をしていた。
「たくさん考えたけど、ちゃんとした答えは出なかった。当たり前だ、正しい答えなんて誰も知らないし、この決断が良かったか、悪かったかわかるのは未来なんだから」
めもりは、下を向いていたが、決意したように顔を上げた。
「自分本位なこの選択が正しいかはわからない。カレンに俺のことを覚えていてほしい。ビットの願いを叶えたい。俺がわかって選べるのは、これだけだ」
ビットはただ泣いていた。なんの表情筋も使わずに涙だけが溢れていた。それは、忘れているけれど、そうじゃないという証かもしれない。
「俺が作れる訳じゃないんだけどね。俺ができるのは血を提供することだけだ」
少し笑って言った。
「覚えていないはずなのに、感謝の気持ちでいっぱいなんだ! これがどういう気持ちなのか、僕にはわからない。でも、きっと尊い気持ちだ。嬉しくて仕方ないよ!」
ビットは、気持ちの説明がつかないのにとても嬉しそうだ。
「私はなぜか、とても複雑な気持ちだわ」
カレンは首を傾げていた。
「でも、私はメモリの決断を受け入れる、って言うって書いてある。短い間だけど、メモリのこと信用してる。メモリが選んだこと間違いじゃないと思う」
こうして、メモリの決断によって、人類は覚えていることができるようになるだろう。それは、喜ばしいことのはずだ。だが、人類にとっては喜ばしいことだが、メモリにとって喜ばしいことかどうかは、今の段階ではわからない。
めもりはビデオで説明があった通りに血清を作った。焦りはなかった。めもりは落ち着いて作っていた。まるでそれが当然であるかのように。
出来たものをカレンがビットに注射した。
まるで、世界が明るく開けたような印象だった。何かが流れ込んでくるような状態ではなかった。フラッシュバックのようなものではない。もっと自然な状態だった。そこにあったものがいつでも取り出せる状態になった。目の前にいるめもりのことも思い出せる、どうやって出会ったかも。これが、自分の世界だ。生きているんだ、とビットは思った。
そう思った瞬間、涙が滂沱のように流れていた。そして歓喜のあまり、めもりに抱きついていた。
「僕は覚えてる! 覚えているんだ。それだけじゃない! 思いだせるんだ!今までメモリと旅したこと全部覚えてるんだ!」
今度は、めもりが泣く番だった。
「覚えてるのか? 二人で過ごした日々を……っ! 俺一人の思い出にしなくてもいいのか?」
「当たり前だよ、僕ら二人の思い出なんだから!」
「二人で泣いてて、なんかちょっと異様な光景なんだけど」
男二人が抱き合って泣いているのを呆れたような目で眺めていたカレンが言う。
「あ、ごめんごめん。カレンにも注射をしたいんだけど」
「自分でも大丈夫だから、さっき打ったわ。でも、別にそんなに変わった感じはしないわね。父さんと母さんのこと、思い出したくらい。もういないものね。忘れてたなんて、信じられないわ」
カレンは涙を見せることはなかった。通常と同じ状態だった。だが、心では泣いていたかもしれない。父親と母親の思い出が甦る間もなく死んでいるなんて残酷だ。
「でも、これで私達は忘れないのね?」
半信半疑でカレンが訪ねる。
「……わからない」
ビットは絶望的な顔をした。顔が真っ青だ。
「血清自体古いものだし、もしかしたら、寝て明日になれば同じ状態になっているかもしれない」
「ビット、あまり考え込まないで。可能性の段階なんだから」
「どちらにせよ、寝てしまえばわかることよ」
落ち込むビットとは対照的に、カレンは平常の声で言う。
「カレンは冷静だね」
めもりは感心したように言う。
「ビットほど、私は思い出すことに関して期待をしていないからかもしれないわ」
昨日、カレンに言われた言葉をめもりは思い出していた。
『思い出したくない』
その台詞は衝撃的だった。だが、同時に、カレンが必死に生きてきた証でもある言葉だ。きちんと自分のしなければならいないことを覚悟している言葉。あんなに取り乱したカレンを見るのは初めてだった。
「僕は絶対忘れたくない。嫌だ。このままがいい」
「ビットはまるで子供だ。何歳?」
「二十三歳でちゅ!」
「子供か大人かどっちだ」
めもりは自分が心から笑っていることに気が付いた。今まで、年齢の話など誰ともしたことがない。
「大人でも心は少年なんだよ」
ビットも思い出したからこそ言えることだ。覚えている人、『自分と同じ人』と話すのは、なんて心地いいんだろう、めもりはそう思った。
「もっと早く決断しておけばよかった」
「いや、十分早いでしょ。本当は、メモリだって、思い出してほしかったんでしょ。孤独だもんね」
『孤独』確かにそうだ。めもりはずっと孤独だった。一緒にいても誰も、過去のことで笑ったりしなかった。
「孤独に人間は押しつぶされるのが、通説だよね」
「何の?」
「さあ、本の、物語の、かな?」
二人は笑いあった。そして、涙も流していた。それは、嬉し涙なのかどうかわからないくらい流れていた。そんな二人をカレンが微笑ましそうに見ていた。
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