第5話「空と陸のあいだ」



走ると、何も考えられなくなる。

ただ、風を受け、風を切る。

走り抜ける感覚が気持ちいい。

足は自然に動くし、身体は汗ばみながらも軽い。

もっともっと早く、そう思ったのがいけなかったのかもしれない。



「マラソン大会ぃぃぃ〜?」

佐々木が嫌そうな顔をした。

「勝負事だろ、佐々木そういうの好きだろ?」

渡辺が笑顔で言った。

「おまえ……わかってて言ってるか?」

「え? なんのことだ?」

きょとんとした顔の渡辺に、佐々木が怒りを隠せずにいる。

「ナベに怒っても無駄だよ、政宗」

川村が佐々木の肩を叩いた。と、その時、

「良太、佐々木くんは運動ができない」

峰岸が渡辺にズバッと言った。

「みねぎー?! 単刀直入すぎだよ!!」

川村が怯えて佐々木を見る。

「そっか、佐々木はよく何もないところで転んでるもんな」

渡辺がトドメを刺した。

「渡辺……絶対わかって言っているだろう?」

ちなみに、いくら運痴な佐々木でも何もないところでは転ばない。

佐々木の怒りのボルテージが最高潮に達しそうだ。

「……死にたいか?」

佐々木が渡辺の首根っこを捕まえた。が、一瞬の隙をつき渡辺が佐々木の腕を振り払った。

「怒ってばっかいるとハゲるぞ、佐々木」

ご丁寧にあっかんべーまでする。今日も渡辺と佐々木の追いかけっこが始まる。

「毎日、よく飽きないね。二人とも」

川村がため息をついた。この頃、二人の追いかけっこが恒例となっている。

佐々木が怒りっぽいのも原因だが、最近、渡辺が佐々木を怒らすのが面白いと思うようになってしまったのが原因かもしれない。

「だけど、追いかけっこのおかげで、佐々木君が素に戻ってる」

「そうだね。それは良いことなんだと思う。だけど……」

峰岸の発言に川村は少し淋しそうな顔をした。

川村はあやふやな気持ちを言葉にすることができなかった。

佐々木が優等生のフリをやめた。少し無理をしていたから、変わったことは良かったんだと思う。それは川村自身も望んでいたことだ。

だが……気持ちがついていかないのだ。

変化に柔軟な対応ができないのは、いけない。そう思えば思うほど、川村の気持ちが滅入る。

わかるような気がする、と峰岸は思ったが、それを川村に伝えることはしなかった。頭では理解できても気持ちは納得しないのだ。川村が
その状態であることを峰岸はわかっていた。

しかし、峰岸はわかっているという気持ちを川村に伝える言葉をもっていなかったのだ。

言いようのないもどかしさを峰岸は感じた。自分の口下手さを思い知るのは、気分のいいことではない。

だが、沈黙した場の空気は重くない。

無言の空気がちっとも苦にならないのが、川村と峰岸だ。

「何、年寄りみたいな雰囲気出してんだ。こっちまで老ける」

体力の絶対値が極端に低い佐々木が戻ってきたようだ。ちょっと息が切れている。

「良太は?」

「あ? 渡辺? しらね〜よ」

不機嫌極まりない口調で峰岸の問いに佐々木は答えた。どうやら、渡辺を捕まえられなくて諦めたようだ。それを、認めたくないようだ。
ゆえに不機嫌になる。見栄っ張りで負けず嫌いな佐々木なのだった。

「ちなみに、俺は記録係だから」

「へ? 何の記録係?」

「お前の耳は四つもあるくせに聞こえないのか?」

佐々木が川村の付け耳を引っ張った。

「いや、上の二つは作り物だから!」

「マラソン大会だよ!」

「佐々木くんは走らない?」

「そうだ。持病の癪でな」

「癪?!」

癪というのは腹や胸のところが痛くなる激痛の総称だ。

癪は突発的な出来事で、マラソン大会を休む理由にならないはずだ。

「へ〜癪じゃ仕方ないか……」

川村の目が泳いでいる。

「おまえ、癪の意味わかってないだろう?」

佐々木の鋭いツッコミが入る。

「いや、そんなことないよ」

川村は佐々木と顔を合わせようとしなかった。

「癪が理由になるわけないだろ、馬鹿かお前は」

癪は時に都合の悪いときに使われたりする。

「え?! じゃあ、どうして記録係?!」

「自分で考えろ!」

「あ、佐々木! 先に戻ってるなんてずるいぞ! おれ、ずっと逃げてたんだぞ!」

「ご愁傷様」

「佐々木、冷たいぞ!」

渡辺が帰ってきてまたうるさくなった。

「まさか……再発……」

川村の顔が不安そうな顔をしていた。

その表情と声にいつもの余裕はなかった。


『晴天とういのは空全体に占める雲の割合が二割以下だったよな。それってすごく難しいことだな』

佐々木が突然そんなことを言ったのはいつのことだっただろう。

『う〜ん、だっけか? 晴れなら簡単なんだけどね』

川村がそんな風に答えた。きっと理科の時間に天気の勉強をした後だった。

『晴れは雲の割合が二割以上八割未満だっけか?』

『よく覚えてるね』

『だって、そう考えると貴重だろう? 晴天の日って』

めずらしく佐々木が微笑んだ。


最近、川村の頭の中を占めているのは昔の記憶ばかりだ。

決断をしなければならないから。

どうしたらいいかわからないから過去の記憶に縋ってしまうのかもしれない。



「てるてる坊主を逆さにしても、雨が降らない時は降らないもんだな」

「え?! 政宗、てるてる坊主作ったの?!」

「違う。夢子がやってたんだ。あいつも今日、マラソン大会だからな」

「ああ、夢子ちゃんね」

夢子とういうのは佐々木の妹だ。

「でも、晴れだもんな、今日」

「夢子ちゃんも苦手だもんね、スポーツ全般」

川村は苦笑する。

「否定できないところが悔しいな」

「お〜い、かわむら〜!! スタートの時間だぞ!」

「今、行くよ」

渡辺がウキウキした表情で川村を呼んだ。

「がんばってこいよ」

「政宗の分までがんばってくるよ」



川村は所定の位置についた。

ピストルの音が鳴る。スタートだ。

皆、一斉に走り出す。


渡辺は足に痛みを感じていた。

それは、だんだん強くなっていく。

じんじんじんじん。

血流の流れ、心臓の音とシンクロするそれは、不快だった。

自分の足が自分でなくなっていくような気がした。

情けないことに、渡辺は泣きそうになっていた。負けそうになっていた。

楽しみにしていたマラソン大会を走り続けられなくなったら……。

そう考えると怖くて仕方なかった。

走りきりたいけど、このまま足が痛み続けたら……。

今は走っていられるけど、走れなくなったら。

けれど、その不安は、川村に追い越された瞬間、なくなった。

途中まで一緒に走っていた峰岸にはもう追い越されていた。渡辺のことを気にしていたが、先に行けと言った。

川村には負けない!! 

元来の勝負好きの性格が燃えた瞬間だった。


「え? 渡辺まだ戻ってきてないの?!」

川村が大きな声を上げた。ゴールまで戻ってきて、しばらくしているから、ずいぶん時間が経っている。

「良太はバスケ部だから、持久力はあるはずだ……一緒にランニングした時は俺より早かった。こんなに遅い分けない」

峰岸が心配そうな顔をしていた。

「今、ゴールした後続組みに聞いてみた。渡辺は苦しそうな顔をして、走っていたらしい。後続組みは運動が苦手な連中ばっかりだから、
自分のことで精一杯でよくわからなかったが、渡辺は足を引きずっていたかもしれない、と言っていた」

佐々木が冷静に状況を峰岸と川村に説明した。

「先生に……」

「いや、昇。もう、俺がした。今、様子をみにいってもらっている」

「そう……」

「お〜い、佐々木!」

自転車に乗りつつ、佐々木を呼ぶのはひょろっとした三十代過ぎの数学の先生、小林だ。ちなみに、独身だ。

「どうでしたか?」

さすがに、先生の前で、佐々木は優等生モードだ。

「それが、渡辺は走りきる、と言っているんだ」

「さっきの話からすると、もしかして、足に怪我でもしているんですか?」

「ああ、そうだ、足を引きずっていたから、そうだろう。車で迎えにいくと言ったんだが、頑として首を縦に振らないんだ」

「良太は、どのあたりにいるんですか?!」

小林は、吃驚したように、峰岸を見た。こんな風にしゃべる峰岸を見たことがないのだろう。質問するのに、驚いたようだ。

「あと、一キロぐらいかな?」

その言葉を聞くか聞かないかのうちに峰岸が走り出そうとした。渡辺のところにいこうとしたのだろう。

「待って、峰岸くん。待っててあげようよ。戦っている自分を見られるのはいやじゃない?」

優等生モードの佐々木が言った。丁寧な口調だったが、瞳は真剣な熱を持っていた。

「待ってよ、政宗。側で励ましてやりたいじゃないか!」

「もし、僕達が行ったら、気が緩んで、その場で走れなくなってしまうかもしれない。それでも、行く? 意思を尊重したいなら、行かな
いべきだ」

「だって、政宗、側にいてもらったほうがいい時だよ、今は!」

「昇のことだから、苦しそうにしている渡辺を見て、もう、走らなくていい、とでも言うつもりか!」

「二人とも、やめてくれ。どちらの言うこともわかる……だから、俺だけが行く。二人は待っていてくれ」

峰岸が走り去った後、二人の間には後味の悪い雰囲気だけが残った。

「ほら、峰岸がなんとかしてくれるだろう。お前達は、後片付けだ。もう、渡辺以外は戻ってきたからな」

小林は二人の背を押した。



「良太!」

「あれ……? 和美(かずみと渡辺は呼ぶが本名かずよし)が見える……なんでだろう?」

「大丈夫か?」

「……あと、ゴールまで……どのくらいだ?」

「もうすこしだ」

渡辺は何も言わずに進む。その後を峰岸も歩く。

ずるっと転びそうになった渡辺を峰岸が支えた。

「肩を貸すぐらいならいいだろう?」

「……そうだな……ありがとな……和美」

そうは、言ったが、渡辺は峰岸の手を拒み、頑なに自分の足で走ろうとした。


二人が陸上競技用のトラックに戻ってきたのはそれからしばらく経ってからだった。日も沈みかけていた。

HRが終わって帰ろうとしていた生徒達も集まっていた。

渡辺は自分の足で歩いている。

足をひきづって辛そうに。

歓声がおこる。

『頑張って』という応援の歓声が。

渡辺は嬉しくて笑った。

待っていてくれた人たちに暖かく迎えられて。

歓声が止み、静寂の中、ようやくゴールラインを渡辺が踏んだ。

皆が渡辺に寄っていく。

「……俺、走りきれたのか?」

「そうだ、良太。よくやった」

峰岸が渡辺を支えて微笑んだ。あまり見たことのない笑み。

「アホか! もし、倒れていたらどうするつもりだったんだ。無理するのも大概にしろよ!」

佐々木の一喝が渡辺の耳に届いた。言い返す力は今の渡辺にはないようだ。

「政宗、さっきと言ってること違うし……」

川村が呆れた声を出した。そして、不器用なんだよね、と笑った。

「ナベ、よくがんばったね。だけど、水分補給は忘れずに」

川村がペットボトルを渡辺に差し出した。十一月とはいえ、痛みのため汗を大量にかいている渡辺は脱水症状を起こす危険があるからだ。

渡辺がベットボトルの中の液体を飲み干した。

安心したのか、渡辺の意識は沈んでいった。



渡辺の足の怪我は転んだことによる捻挫だった。走りぬいたことで、少し悪化したが、たいしたことはなかったようだ。

だが、病院の先生に雷を落とされたようで、渡辺は不服そうだった。

「なんで、おれ、こんなに怒られるんだ」

と言っていたそうだ。



「なんだかんだいって、こうやって季節は過ぎていくんだな……」

川村の哀愁漂う後姿に、佐々木が蹴りを入れた。

「何、黄昏てるんだ! そんな暇あったらさっさと仕事しろ! 生徒会長の仕事溜まってるそ!」

こうして平和に過ぎていく日々を大切にしたい、と川村は思った。




※予告は今回よりなくなりました。

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