マッチを売らないおじさん


「なんでこんなことになっちまったんだろうなぁ」
 真面目に仕事をしていた。だが、やってもいない横領の責任をとらされた。ただ、関係書類に判子を押しただけだったのに。結構大きな事件となり、お金を一円も横領していないこの男も解雇となった。横領をみつけられなかった責任として。助けてくれる者は誰もいなかった。仲の良かった人でさえ、遠巻きに見ているだけだった。今は連絡さえもとっていない。
「あんな狡猾にされてわかるかけないっつーの。俺は書類の精査しかできねーつーの」
 男は、ぼやく。ぼやいても何も変わらないが。
「はぁ〜。嫁さんと娘にも逃げられるし」
 実家が裕福な嫁は、無職になった男に用はないようだ。実家に帰り、離婚届を突きつけてきた。
「順風満帆だった俺の人生はどこにいったんだ」
 もう冬だ。木枯らしも吹いている。男には帰る場所もない。陽も落ち、夜になっている。就職活動の帰りだった。何社も落ち続けている。
「はぁ〜寒みぃなぁ」
 男の心と身体は冷え切っていた。

 どこかの居酒屋でもらったマッチをつけて、タバコに火をつけた。



「幸せな妄想はマッチの火みたく儚いもんなんだな」
 男はタバコをふかしながら、つぶやく。
「マッチ売りの少女はマッチが燃え尽きた後、死ぬんだっけか?」
 遠い時代の話に思いを馳せた。
「あと、マッチの火が消えるまでスカートの中みせるっていうのがマッチ売りだったんだっけか? そうまでしないと生きていけないって、残酷だな」
 本当は残酷だった話。現実は厳しい。そして、救いがあることは少ない。
「俺は臓器売るぐらいしかないか。いや、この平和な日本で臓器売る人なんて見たことねーや」
 男は暮れてきた空を見上げた。
「臓器売るツテもねぇ。携帯もネット繋げないしなぁ。そりゃそうだろうな。俺、結構真面目に生きてきたからな」
 ベンチの背もたれによりかかったまま、ヘリへ尻をずらし、だらけた格好になる。
「良かったのか、悪かったのか」
 独り言を呟き続ける男は不気味だ。
「このままマッチ売りの少女みたいに死んでしまえたら楽だよな」
 空を見上げたまま、鼻をすする。寒さなのか、涙なのか。
「寒いな。マッチ売りの少女みたく、マッチに火をともすか」

「ああ、これは、小さいころのことだ」
 両親に囲まれ、五歳の誕生日パーティーをしていた。
「あの頃は幸せだったな。何も知らずに親に守られ、辛いことも悩みも、今思えば小さくて、成長するために必要で幸せなことだった」

「……あったかいな」
 小さな火でも暖かく感じられた。
「あったかさは幸せと直結しているような気がする」
 ふっとマッチの火は消えた。とても短く儚い時間だ。
「儚いな……人(にんべん)に夢って書いて儚いか。人の夢は儚いもんなのか」
 二本目のマッチを擦った。

「ああ、これは、高校の時、バレーに燃えてた時だ」
 青春はバレーだった。そのまま続けていきたかったが、突きつけられたのは現実だった。自分には、そんなに才能がなかった。バレーでは食べてはいけないだろう、と顧問に言われ、引退し大学を受験した。
 自分がプレーしている姿が見える。あの頃の自分は、ただ、ボールを打つことに何の疑問も持っていなかった。ただ、楽しかった。点をとることが、ただ上手くなることが。だが、背もそんなに高くなく、突出した才能もなかった自分が、プロになれるわけがない、そう決めつけてしまった。
「あの時、別な決断をしてたら、もっと違う未来になってたのか。諦めないでやってしまえばよかったんだ。後で後悔しても遅い。辞めないで、他のことをしながらでも続けることはできたはずだ。俺はなんで、こんなところにいるんだ。続けていればよかった。こんな気持ちにならなかったのに」
 ずっと心の端にひっかかっていた。大人になっても趣味でもやる手段はあったはずだ。だが、忙しさに格好をつけて、しなかった。
「なんて俺はバカなんだ。今更気づいたって遅い」
 遅くない、今からでもできる。彼にそう言ってあげるような人は彼の傍にいない。

「あぁ、これは、あいつとの出会いだ」
 妻と出会った瞬間だった。大学の入口、桜並木で出会った。一目惚れだった。風になびく髪が美しかった。桜が舞い散っている。
「出会えてよかった。今も心からそう思う」
 ずっと見ていたかったが、マッチの火は無情にも消えていく。
「なんで、出て行っちゃったんだろうな…」
 今はもういない妻に向かってつぶやく。
「今でもまだ、こんなに愛してるのにな」
 照れくさくてほとんど言葉にすることができなかった言葉だ。
「言葉にすると辛い」
 もっと言ってやれば良かったな、とつぶやいた。離婚されなかったかもな、と男は目に涙を浮かべた。

 そして、またマッチに火をつけた。
「子供が産まれた時だ」
 仕事で間に合わず立ち会えなくて、その後、妻にさんざん言われた。だが、娘を抱いた時、感動で泣いてしまった。小さくて壊しそうで恐る恐る抱いた。両手に包めるくらい小さい。これが、命が繋がるということなのか、と涙が流れた。
 あっという間に育って生意気になってしまったが。それもまた、幸せの一部だった。当たり前だったから、その幸せの大切さに気づかなかった。涙は、男の瞳から流れていた。

マッチが消えそうになり、慌てて次のマッチをつける。
「去年のクリスマスだ」
 偶然、仕事が休みの日で家族三人で祝った。幸せの絶頂だった。その時は当たり前としか思わなかった。妻がケーキを用意して、自分がプレゼントを買っていく。家族で食卓を囲みケーキを食べる。幸せを感じるよりも、ただ、楽しかった。記憶だけがぼんやり見える。今は、それがどれだけ尊くて暖かくて奇跡的なものだったか、わかる。幸せすぎるぐらい幸せだった。

「今日は、クリスマスか……あれ、眠い……」

 マッチの寿命は短い。男はうとうとし、火が消えると共に眠った。真冬のベンチの上で。

 次の日の朝、一人の女性が公園を歩いていた。小学生くらいの女の子と手をつないでいた。そして、男を発見する。男は彼女の夫だった。夫を見捨てたことを後悔して、戻ってきたのだ。妻はベンチで冷たくなっている男を発見した。信じられないという顔をした後、現状を理解し泣き叫んだ。


 おしまい




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